「わからないところがわからない」を先生はわからない

何度か書いている通り、私は学生時代から受験産業に身をおいていました。大学生のころは中学生に英語を教えてたんですよ。自分では結構丁寧に教えているつもりでしたし、実際評判も良かったです。頑張って勉強すれば成績が上がる、という体験をたくさんの子にしてもらいました。たぶん人生の中で努力がそのまま報われる体験は、受験くらいしかないと思います。その体験はそれから後の人生で理不尽な出来事に遭遇した時の糧になる、と私は信じています。

それでもね、やっぱりちゃんと塾に来ていても成績の伸びない子はいました。どんなに丁寧に教えてもやっぱりテストで点が取れません。彼らは「わからないところがわからない」という言い方をすることが多かったです。そういわれてしまうとお手上げやな、と私もさじを投げたところがありました。

それである時、私は仏文学科の講義に潜り込んだことがあります。私は国文学科に在籍していて第2外語は中国語でした。ですからフランス語は全く知りません。その時は仏文学科の友人とどこかに遊びに行く約束をしていて彼を待ちがてら教室に座っていたと記憶します。

持参した本でも読んでいれば良かったのですが、聞くとはなしに講義を聞いていました。もちろん全然理解不能です。先生が何か冗談を言って皆が笑っても私一人何がおかしのかわからない。それは当然のことなのですが私はなぜか強い疎外感におそわれました。

確かに日本語での講義なのに内容が全くわからん。

しかもオレひとりだけ。

もし、講師が私に対して「どこがわからないか言ってごらん」と言ってくれたとして私はそれに答えることはできなかったでしょう。

まさに、わからないところがわからない状態です。

私はその後、「わかっていなくてもテストで点だけは取れる」姑息なメソッドを売るようになるのですが、その背景にはあの時の疎外感があると思います。

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