人は「コロナ後遺症」をどうして恥じるのか

独りぼっち

ちょっと不思議な話です。新聞を読んでいるとコロナ後遺症に関するイギリスでの調査結果として、「後遺症があることを恥じる」気持ちがあると、かなりの人が回答しているそうです。「スティグマ」というらしいです。日本でもそうなのでしょうか。新聞に載っているくらいですからそう考える人が少なくないのかもしれませんね。

当たり前の話ですが、病気に罹患したのはだれの責任でもありません。もちろん罹患した人にも何ら責められるいわれもなければ、後遺症を恥じる必要もないのは明白です。ではどうして?

新型コロナウイルスの「後遺症」、正確には罹患後症状にはこのようなものがあります。疲労感・倦怠感、関節痛、筋肉痛、咳、喀痰、息切れ、胸痛、脱毛、記憶障害、集中力低下、頭痛、抑うつ、嗅覚障害、味覚障害、同機、下痢、腹痛、睡眠障害、筋力低下など。

肺炎に由来する呼吸器の問題もありますが、大半は自律神経の問題です。何度か記事にしたのでご記憶の方もおられるかもしれませんが、新型コロナウイルスの後遺症は「背側迷走神経節」が優位になって発生しているものと考えられます。普通、敵に攻撃されると交感神経が優位になって逃げるか戦うかを選択します。

ところがそれでもダメな時、逃げることもできないし戦っても到底勝ち目がない時、言いかえれば絶体絶命のピンチの際には人間は「凍りつく」ようにできています。すべてをシャットダウンしてひたすらピンチが過ぎゆくのを待つ状態です。

到底かなわない敵に襲われて、逃げることも戦うこともできない時のぎりぎりの選択です。人間(だけでなくすべての生き物はそうなのでしょうが)が本能として最優先するのは「生きる」ことです。そのための生体防御反応がすべてをシャットダウンして「凍りつく」ことなのです。そうして罹患した人が人類史上未知のウイルスだった新型コロナウイルスに対して、「逃げることも戦うこともできない到底かなわない敵」という認識を持ったとしても不思議ではありません。その結果が「後遺症」となって現れているわけです。

それで例えば、学校での「いじめ」です。(いじめとか体罰とかいう学校用語は体のいい言葉のすり替えで、単に犯罪とか暴力と呼ぶべきだと考えているのですが、今はそれには触れません。)逃げることも戦うこともできない状況であれば、被害者はひたすら全てをシャットダウンして凍りつく以外にありません。そうやって抵抗しないことが「生きる=死なない」という人間の最優先事項にとっては有利に働くからです。

それはイキモノとしての人間にとってはベストな選択です。ところが周囲の大人は、「そんなことでやられるなんてだらしない」、「抵抗しないお前が悪い」みたいなことを言いたがります。ようは敵わないまでももっと戦うべきだった、という論調ですね。無責任な発言でしかないのですが、同様の状況に対する最大公約数的な反応であることも否めません。そうして暴力を受けた本人ですら、一般論としては最大公約数に与する可能性が高いと思います。

そこで本人の中に葛藤が生じます。理不尽な暴力を受けた記憶がトラウマになって残ることはもちろんですが、ご丁寧に人間の脳はその記憶をあれこれ吟味します。「もっとどうにかできなかったのか」「なすすべもなくやられっぱなしだったのはどうしてだろう」、などなど。そうしてそれは、抵抗できなかった自分の弱さを恥じる考えとなって脳に結論づけられます。悪いのは暴力をふるった側であることは明白であっても、です。

暴力に抵抗しなかったことは「生存する」という命題に対しては100%正しい判断でした。ところがトラウマとして残った記憶をあれこれ吟味していくうちに、普段の自分の行動や価値観とのギャップを感じるようになるということです。抵抗する「べき」であったのに(背側迷走神経系が働いて)できなかった。そのことが「自分の弱さを恥じる」考えとなるのだと思います。

おそらく新型コロナウイルス後遺症についても同様の機序が働くのでしょう。罹患した人が最大公約数として持っていた「べき」。それは「コロナに感染しないように細心の注意を払うべきだ」なのか「コロナが治癒したのなら元の通りの生活に戻るべきだ」なのかはわかりません。たぶんそれは個人によって異なるのでしょう。いずれにせよコロナに罹患して心身が「凍りついた」ことで自分の考えていた行動や価値観が崩されてしまったこと、これがコロナ後遺症を「恥じる」気持ちの正体なんだろうと思います。

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